靴下の専門店「靴下屋」を展開するタビオの創業者で、会長を務めていた越智直正氏が1月6日に急逝した。中学卒業後の丁稚(でっち)奉公から身を起こし、靴下の卸売りから小売りへと進出。多くの同業が生産拠点を中国へ移すなかでメードインジャパンにこだわって、「3足1000円」の普及品とは一線を画した市場を開拓した。
日経ビジネスは2021年12月、越智氏にインタビューしていた。息子の勝寛氏に社長を譲って13年。まだ新商品開発や品質向上に取り組んで第一線に立っていた直正氏。哀悼の意を込めて当日の様子をお伝えする。謹んでご冥福をお祈りいたします。
タビオの創業者で会長だった越智直正氏(写真=菅野 勝男)
人なつっこい笑みを浮かべながら、越智直正会長(当時)はインタビューの部屋に入ってきた。82歳とは思えないユーモアを交えた元気な語り口。「最近もよく出社しているのですか」と尋ねると、「ほぼ毎日ね。この人たちからは煙たがられるのだけれど」と冗談めかし、そばに控える社員の顔をチラリと見て笑った。
靴下に関わり始めたのは中学卒業後の丁稚奉公。15歳で単身、故郷の愛媛から大阪に出て靴下問屋に入った。休みは1カ月に半日しかなく、月給1500円。毎日大将に怒鳴られながら身を粉にして働いた。取引先のメーカーでものづくりを学び、百貨店を回って商品を売った。「どつかれたり、蹴飛ばされたりしながら仕事漬けの日々。でも売れるとうれしくてうれしくて、とにかく楽しかった」と振り返っていた。
米ビジネススクールも注目したSCM
1968年にタビオの前身であるダンソックスを創業。「靴下に好きも嫌いもない。中卒で働き始めてそれ以外を知らず、選択肢がなかったのだから仕事に迷いようがない。大卒の人とは違うんですわ。でも、何でも突き詰めればやる気が出ますよ。靴下では何が何でも日本一になるという夢があった。今では世界一の会社になったと思ってます」
今から30年ほど前に、協力工場から店舗までを一気通貫で結ぶ独自の受発注システムを構築。先進的な取り組みは、米国のビジネススクール教授に注目されたほどだ。今で言うサプライチェーンマネジメント(SCM)の先駆けと言える。だが、越智氏に言わせれば「生き延びるために必死で考えてひねり出したアイデアだった」。
「どの商品が売れるか、売れないかという勘や予測は、誰がやっても当たらない」が経験に基づく持論だ。それでも売れ残りや売り逃しなく売り上げを伸ばすためには、「売れたものを売れただけ作る」しかない。そこで頼ったのが、店舗と協力工場で販売状況を迅速に共有するための情報システムだった。協力工場にも設備投資の負担や手間を強いることになるため、当初は抵抗も大きかったが、2年以上かけて粘り強く説得した。
「商品そのものが経営だ」
良い靴下へのこだわりは右に出る者がいないほど。「商品そのものが経営」が口癖だ。新商品はすべて自分で試着し、その数は多いときには1日300足にも上った。「はくときにスッと足が入って、やさしくフィットするはき心地が大切」という。
試着時の感覚を研ぎ澄ませるため、1年中、素足にサンダルで過ごした。肌触りを確認するときは靴下を頬(ほほ)に当て、時には歯でかんで感触を確かめる。「良い靴下には復元力があって歯形が残らない。神経を集中させて五感で靴下を感じるのです」と力を込めて語った。
January 17, 2022 at 03:00PM
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00002/011701390/
追悼 「3足1000円」に日本製靴下で挑んだタビオ越智直正氏 - 日経ビジネスオンライン
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